教えのやさしい解説

大白法 733号
 
毒鼓の縁(どっくのえん)
 「毒鼓」とは涅槃経(ねはんぎょう)に説かれた譬(たと)えで、「どくく」、「どっこ」とも読みます。日蓮大聖人が『唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)』に、
「同じくは法華経を強(し)ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成(な)すべきか」(御書 二三一n)
と仰せのように、たとえ相手が聞くことを拒(こば)もうとも、折伏によって法華経を強(し)いて説き聞かせて下種(げしゅ)結縁(けちえん)させることをいい、逆縁(ぎゃくえん)を結ぶこと、とも言われます。

毒鼓の譬え
『涅槃経』に、
「毒薬を以(もっ)て用(もち)ひて太鼓(たいこ)に塗(ぬ)り、大衆の中に於(おい)て、之(これ)を撃(う)ちて声を発(いだ)さしむるが如(ごと)し心に聞かんと欲(ほっ)する無しと雖(いえど)も、之を聞けば皆死(し)す」(国訳・涅槃部一―二〇四)
と説かれているように、毒鼓とは毒を塗った太鼓のことで、その太鼓を打つことによってその音を聞いた人々は聞く気持ちがなくとも必ず死んでしまうと言われています。
 涅槃経では、この毒鼓の譬えのように、相手が聞く耳を持たなくとも、一切衆生の仏性(ぶっしょう)常住(じょうじゅう)を説く涅槃経を強(し)いて説き聞かせて縁を結ばせ、貪瞋癡(とんじんち)の煩悩(ぼんのう)の惑(わく)を破(は)して仏性を薫発(くんぱつ)し開いていく仏の化導(けどう)が説かれています。

毒鼓の本義は法華経にある
 しかし、涅槃経はその前に説かれた法華経の義を重(かさ)ねて説いた教えであり、本来、仏性常住の実義(じつぎ)は法華経にあることを知らなければなりません。
 つまり、法華経迹門(しゃくもん)では十界互具(じっかいごぐ)を説いて、一切衆生に仏性が具(そな)わることを明(あ)かし、本門『寿量品』にいたって能化(のうけ)たる釈尊の久遠実成(じつじょう)を説くことで、所化(しょけ)たる衆生の仏性もまた常住であることが明かされました。即ち、法華経本門(ほんもん)において、能化所化が常住一体となり、初めて真の成仏が成就(じょうじゅ)したのです。
 したがって、天台(てんだい)大師が『法華玄義(げんぎ)』九上に、
「法華は折伏(しゃくぶく)にして権門(ごんもん)の理(り)を破す(中略)涅槃は摂受(しょうじゅ)にして更(さら)に権門を許(ゆる)す」
と述べているように、法華経の折伏に対すれば涅槃経は摂受であり、涅槃経の毒鼓の行もその本義は法華経の一仏乗(いちぶつじょう)にあるのです。

不軽菩薩(ふきょうぼさつ)
 「毒鼓の縁」、即ち折伏の行相(ぎょうそう)は、法華経本門に示された不軽菩薩の修行にあります。威音王仏(いおんのうぶつ)の滅後(めつご)、像法(ぞうぼう)時代、不軽菩薩は、法華経『常不軽(じょうふきょう)菩薩品第二十』に、
「我(われ)深く汝等(なんだち)を敬(うやま)う。敢(あ)えて軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。汝等皆(みな)菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏することを得(う)べし」(法華経 五〇〇n)
と唱えながら、行き会う人すべてに向かって礼拝(らいはい)しました。
 漢字の文字数(もじすう)から「二十四文字の法華経」と言われるこの言葉は、一切衆生に具(そな)わる仏性とその発現(ほつげん)、つまり法華経の十界互具・一念三千の経意(きょうい)を要約(ようやく)したものです。したがって、この不軽菩薩による礼拝行は、まさに法華経を法体(ほったい)とする下種結縁の折伏行に当たるのです。礼拝行を行う不軽菩薩は、瞋恚(しんに)の心を抱(いだ)いた出家の男女(なんにょ)、在家の男女から悪口(あっく)罵詈(めり)され、杖木(じょうもく)瓦礫(がりゃく)の難を受けました。しかし、それでもなお不軽菩薩は先(さき)の言葉を唱えながら、逆縁(ぎゃくえん)の下種折伏として繰り返し礼拝を続けたのです。
 その結果、不軽菩薩は臨終(りんじゅう)の際に威音王仏(いおんのうぶつ)がかつて説いた法華経を聞き、ことごとくこれを受持して六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)の功徳を得(え)、さらに寿命を二百万億歳延(の)ばして法華経を説き弘(ひろ)め、後(のち)にその功徳によって成仏を遂(と)げました。不軽菩薩は釈尊の過去世(かこせ)の姿だったのです。
 一方、不軽菩薩を迫害(はくがい)した上慢(じょうまん)の四衆(ししゅう)は、後(のち)に不軽菩薩の六根清浄を得た尊(とうと)い姿を見て信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)したにもかかわらず、臨終の後、二百億劫(おっこう)もの間、仏法僧(ぶっぽうそう)を見聞(みき)きすることすらできず、しかも初めの千劫(せんごう)には阿鼻(あび)地獄において大苦悩(だいくのう)を受けたのです。
 しかし、その罪(つみ)が終わると、彼らはまた不軽菩薩のもとに生(しょう)じ、釈尊の法華経の会座(えざ)に連(つら)なって成仏を遂(と)げることができたのです。それはまさに不軽菩薩による法華経の毒鼓の縁、逆縁成仏の相(そう)だったのです。

大聖人の御教示(ごきょうじ)
 さて、日蓮大聖人は、末法の衆生は本未有善(ほんみうぜん)の機(き)であり、謗法(ほうぼう)深重(じんじゅう)の衆生であるとし、『教機時国抄(きょうきじこくしょう)』に、
「謗法の者に向かっては一向(いっこう)に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成(な)さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」(御書 二七〇n)
と、不軽菩薩の修行をもって末法折伏の規範(きはん)とされました。
 しかし、布教(ふきょう)の行相(ぎょうそう)は不軽菩薩にならいますが、『教行証(きょうぎょうしょう)御書』に、
「此(こ)の時は濁悪(じょくあく)たる当世(とうせい)の逆謗(ぎゃくぼう)の二人に、初めて本門の肝心(かんじん)寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為(な)す」(同 二〇四n)
と仰せのように、弘(ひろ)める法は法華経本門『寿量品』の文底(もんてい)肝心、下種の法体(ほったい)である三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。

まとめ
 日蓮大聖人は『法華初心成仏抄(ほっけしょしんじょうぶつしょう)』に、
「とてもかくても法華経を強(し)ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗(ぼう)ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同 一三一六n)
と仰(おお)せです。
 末法においては、寿量文底(もんてい)下種の南無妙法蓮華経を、たとえ相手が嫌(いや)がろうとも真心(まごころ)を込(こ)め、誠意(せいい)をもって説き聞かせることが大切です。即座(そくざ)に信じた順縁(じゅんえん)の人は今世(こんぜ)に成仏するでしょうし、誹謗(ひぼう)する人は逆縁(ぎゃくえん)として、それが毒鼓の縁となって、これまた遠い未来において日蓮大聖人によって救済されていくのです。法華講の私たちは折伏によってさらに「毒鼓の縁」を拡大(かくだい)していきましょう。